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白拍子作品の解説

​水猿曲(みずのえんきょく)

采蓮曲(さいれんきょく)

歩月(ほげつ)

水猿曲(みずのえんきょく

 

作品について

 白拍子の代表曲と言われています。

 水猿曲は、水の優れているところを、日本のはるか遠くの国から次々と歌い上げて、水の力の優れている様を褒め称えてゆきます。

 まずは西天竺の白鷺池(はくろち)。当時の天竺は、玄奘三蔵が教典を取りに行ったナーランダ僧院(ブッダガヤの北東)よりもさらに西。世界の果てにある池ですよ、と遥かな地に思いを寄せます。

次が雲南省の首都になる昆明池(こんめいち)。これは中国の果てという感じです。

厳陵瀬(げんりょうらい)は浙江省(せっこうしょう)杭州(こうしゅう)、中国の東、日本に最も近い中国です。そこには厳光(B.C.39〜A.D.41)が、中央政権から官僚の誘いを受けても、権力抗争に身を置きたくはないと、日々、釣りの糸を垂れていた池です。

 そして山田の筧の水。京都府与謝野郡にあった山田村。現在は与謝野町と呼ばれています。垂仁記によれば、律令制以前の丹羽国造(にわのくにつくり)の王には五人の姉妹がいました。出雲勢力下であった彼女たちは、人質として垂仁天皇(B.C.29〜A.D.70)の愛人として捧げられました。しかし5番目の妹、竹野媛(たけのひめ)は、容姿も優れないので国に戻されます。それを恥じ憂い、国に戻る途中の水に堕ち自殺します。伝説の中で、彼女は初めて水の中で死んだことにより、水の神となりました。竹野媛の名は地名によるものですが、彼女は迦具夜比売(かぐやひめ)とも呼ばれています。彼女は夜、水に映る月を見とめ、月の光に向かって水の中に身を進めていったのでしょう。白拍子として名を残した静(しずか)は、丹羽国(にわのくに)の出身で、この歌舞を得意としていました。

 この土地に、徐福伝説が多く残されています。秦の時代から600年経つと、丹羽国(現在の丹後半島)は稲作・農耕・鉄製品の加工・機織・酒造り・医療薬学など、海を越えて多くの技術が渡ってきたところと言われています。

 そして最後に三島入江。大阪府北摂津三島地域。桂川、宇治川、木津川が山崎地峡で合流して淀川となる場所。都を流れる川、それが一つのなる入江の水が絶えることは、決してないでしょうと、平安時代の都、京都の繁栄を歌い上げています。

<歌詞>

水のすぐれておぼゆるは、西天竺(さいてんじく)の白露地(はくろち)

尽浄許由(しむしょうこゆ)に 澄みわたる

昆明池(こんめいち)の水の色 行く末久しく澄むとかや

賢人の釣りを垂れしは 巌陵瀬(げんりょうらい)の河の水

月影ながら洩るなるは 山田の筧の水とかや 

蘆の下葉を閉ずるは 三島入江の氷水

春立つ空の若水は 汲むとも汲むとも 尽きもせじ尽きもせじ

<意味>

優れている水として忘れられないのをあげていくと、まずは、西の彼方からは天竺(てんじく)の白露池(はくろち)。これは清らかに静かにたたずんでいる。

昆明池(こんめいち)の水の色は、いつまでも永遠に澄むという。

厳光(げんこう)という賢人は釣りの糸を垂れているのは、厳陵瀬(げんりょうらい)で、そこの河の水も優れている。

月影が洩れて見えているのは、山田の筧(かけい)であるとか。

葦(あし)の下葉を閉ざしているのは、三島入江の氷水のせいだ。それが春になると、空の下の若水は、汲んでも汲んでも尽きることがありません。

采蓮曲(さいれんきょく)

●作品について

「采蓮曲(さいれんきょく)」許蘭雪許作詞

許蘭雪許(ホ・ナンソロン 1563〜1589)の作。儒教道徳の社会で女性蔑視の風潮があった時代に革命的な詩を残した女性。家族からも家庭からも理解は得ず、姑からも虐待を受け、27歳で夭逝。朝鮮戦争後の世界的な男女同権思想によって、初めて彼女の作品は評価されました。「好きな人の姿を見て、蓮の実を投げたところを遠くの人に見られた恥ずかしい」。今まではない独自の世界観を歌っています。

​最初は李圭宗が作った時調(シジョ)という定型詩の形式の旋律です。次に日本は世紀末の今様の旋律で桜井真樹子が作りました。

●「采蓮曲(さいれんきょく)」

<歌詞>

時調(シジョ)の形式の歌詞

 秋淨長湖碧玉流(チュー チョン チャン ピョク オク ニウ) 

 蓮花深處繋蘭舟(ハー ファ サム チョ ケー ラン チュ)

 逢郎隔水投蓮子(ボン ラン キョッ ス トウ リャン チャ) 

 或被人知半日羞(ヨ ピー イン ジ パン イル スゥッ)

 

今様の形式の歌詞

 秋闌(た)けて ひろき淡海(あふみ)は 碧玉(へきぎょく)と 浄(きよ)くひかりて 蓮しげり

 木蘭の 舟つなぐれば 思ふ人 水を隔(へだ)ちて 見留めたり

 蓮の実を 投ぐり遠(とほ)くの 人に知れ 恥じて過ごせり その半日(はんじつ)を

歩月(ほげつ)

 

●作品について

「歩月」程搏萬作詞

琉球の代表的な漢詩の詩人、程順則の息子、程搏萬(ていせんばん 1689〜1702)の作。李白や李賀を思わせる才能があったにもかかわらず14歳で夭逝。「歩月」は12歳の時の作品。「清らかな月の光はこの世の汚れをあらい清めている。この光景を何と歌えばよいだろう。月宮殿に行って天女に聞いてみたいものだ」純真な心と稀なる才能の拮抗が生み出した歌。先般の沖縄市で16歳にして警官の警棒で右眼を失明した少年の未来に捧げたいと思います。

最初は江戸中期の学者文雄(もんのう 1700-1763)による清時代の中国語発音辞典から発音を復元した旋律。次に琉球の古典歌謡の形式による旋律。共に桜井真樹子が作りました。

●「歩月(ほげつ)」

「磨光韻鏡」による清時代の中国語の歌詞

 中庭満樹白璘璘 チヨン テイン モワン シユイ ベエ リム リム

 萬里清光絶點塵 ウワン リイ ツイン クワン ツエ テム ヂム

 尋句踏残三径後 ズイム キユイ タ ヅアン スアム キイン エーウ

 夜深欲問廣寒人 イエ、 シム ヨ ウヲン クワン アン ジム

 

琉球歌謡の形式の歌詞

 庭に降り立つ 月光(つきひかり)

 眠れる樹樹に 満ち溢れ

 清らに洗ふ 現世(うつしよ)を

 詩句を求めて さまよへば

 月住む人を 思ひ出づ

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